久礼の港と漁師町の景観 【久礼地区】
中世~近世期にかけて繁栄した港を核として形成された市街地が、鰹漁と共に発展した漁師町や漁港と相まって形成される独特の文化的景観
高知県中土佐町の久礼(くれ)港区域は、太平洋沿岸部の土佐湾が大きく湾入した地点にある。地の利に恵まれた久礼の港「久礼港」は、中世から近世にかけて、四万十川流域を中心とした領域各地で生産された物資を、関西方面へ搬出する重要な港の一つとして発展してきた。同時に他地域から物資や情報を取り入れる要港としての役割を担ってきた。
久礼にまつわる歴史を紐解くと、13世紀中頃の資料では久礼は「加納久礼別府」として土佐一条家の幡多庄に含まれており、一条氏の久礼への注目度の高さが知れる。また、久礼湾に注ぐ久礼川の支流で発掘された「坪ノ内遺跡」や久礼字城山下越の西山城跡から発掘された遺物などから、久礼港を中心とした海域での様々な流通・往来が、既に14世紀頃から行われていた事が分かる。さらに15世紀頃からは、佐竹氏の久礼城が久礼の中心的な城として機能するようになり、久礼城跡周辺部への人々の居住が進み、現在の久礼地域の発展の基となっている。
このように近世初頭には、城郭・家臣居住地を取り込んだ、港湾機能に重点を置く市街地が形成されており、現在の久礼港を中心とする景観はこの市街地の構造に基づいて形成されたものである。
海運による交易は、久礼の町並みにも多様な文化をもたらし、”水切り瓦”や”土佐漆喰”など台風の常襲地域に住む人々の知恵と暮らしの中に受け継がれている。家屋が密集した久礼の漁師町では、玄関脇の流しで魚をさばく人々の暮らしを見ることができる。
この久礼地区の主な景観要素としては、今なお現役の漁港である久礼内港および久礼外港、土佐三大祭りにも数えられる久礼八幡宮秋季例大祭の久礼八幡宮、県内外の観光客の人気スポットとなっている久礼大正町市場、林産物の交易盛んな往時を偲ばせる旧炭倉庫群および桟橋跡、いつの時代も久礼の漁師を見守り続ける恵比須神社、高知県内最古の酒造メーカーである西岡酒造店のある本町商店街通り、古き時代に林産物の積出港として栄え、また近くに土佐十景にも数えられる双名島を望む鎌田港などが挙げられる。
久礼を含む周辺地域には、これらの文化的景観以外にも多くの観光・宿泊・レジャースポットがあり、また5月のかつお祭りをはじめとして四季折々のイベントが開催され、県内外観光客の人気スポットの一つとなっている地域である。
久礼内港
久礼港は土佐湾が大きく湾入した中土佐町海岸部の中心に存在する。その久礼湾に注ぎ込む久礼川の河口付近に久礼内港と外港がある。北西の風が吹く冬場の晴れた早朝、久礼川河口から久礼湾にかけて川霧、海霧の幻想的な風景が現れる。
久礼港は早くから四万十川流域の山林資源の移出港であり、また同時に鰹漁や鰤漁などの漁業により繁栄した港でもある。それらの生産活動や商業活動における陸路・海路の結節点として重要な役割を果たしてきた港である。
古来より久礼地区は鰹漁などの漁業と共に木炭などの林業も盛んであった。藩政期において、近隣地域の御蔵米は久礼港より城下へ運ばれ、林産物は同港より上方へ移出されるなど、久礼港は上ノ加江・矢井賀などと共に近世・近代期における土佐西部の流通の要港として栄えた。
久礼湾に注ぐ久礼川の支流の谷では、平安時代から室町時代前半期にかけての坪ノ内遺跡が発掘されている。
この遺跡では広域流通品である和泉型瓦器椀や東播磨系の鉢、備前焼の鉢などの製品が見られ、また貿易陶磁器類である青磁や白磁が出土されている。これらの遺跡は14世紀頃から久礼港を中心に、海を介して様々な流通・往来が成立していたことを物語っている。
【久礼内港】
久礼は古くから鰹漁や鰤漁が盛んであったが、湾口が外海に向かって大きく開いており港としての機能が不十分で、わずかに小型船が久礼川口に出入りして用をなしていた。
久礼外港
久礼港区域には、水産業や林業など自然と係わる人の営みが長い年月に亘って行われた事によって創出された景観が良く残っている。具体的には、山林資源の流通・往来と漁業によって創出された景観である久礼内港・外港、鎌田港、大正町市場、旧炭倉庫群、桟橋跡、久礼八幡宮などであり、これらは久礼地域の歴史とその変遷およびそれぞれの時代の久礼の人々の生業の有り様を内包する地域固有の文化的景観である。
久礼地区の人々の意識の中においては、好景気だった頃の鰹漁や四万十川流域の山地から運ばれてくる木材や炭等の移送に伴う生業など、往時の活気は遠い過去の記憶ではなく、つい最近の記憶のように克明に刻み込まれている。それらが現代の暮らしの中における相互扶助の形や文化として継承され、地域資源を活用した町の振興へと繋がっている。
ふるさと海岸から太平洋・久礼湾・双名島の眺めは絶景で、久礼外港周辺は写真愛好家による”日の出”、”ダルマ朝日”、”海霧”、”出漁”などの写真撮影スポットの一つでもある。
【久礼外港】
久礼湾は、南部の半島状に突き出した丘陵側から北に向かって浜堤が発達している。久礼八幡宮は、この浜堤微高地に鎮座、久礼港はこの浜堤防の北側に位置し、久礼川・長沢川の両河川による扇状地、三角洲の様相を呈する。
天正16年(1588年)の『長宗我部地検帳』には、久礼港湾を中心とした浜屋敷(ハマヤシキ)の記載が見られ、港湾機能を重点においた領国経営の様子がうかがえる。
久礼八幡宮
久礼八幡宮は、古くは正八幡宮とも称して旧久礼村の郷社であった。秋季の祭礼である”久礼八幡宮秋季例大祭”は、土佐の三大祭りの一つにも数えられ賑わいを見せる。
久礼八幡宮の歴史は古く、その創建は明徳年間(1392~1393)、慶永年間(1394~1427)、嘉吉年間(1441~1443)などの諸説があるが、宝永4年(1707)の大地震「宝永地震」の津波により宮殿が破壊され棟札も流出したため、その創建年の特定は困難になっている。
久礼八幡宮の境内には、ミカドアゲハ(帝揚羽、揚羽蝶の仲間で日本での個体数は少ない)の食草である「オガタマノキ(招霊木、小賀玉の木)」の大木があり、推定樹齢は二百年以上。同じ高知県内の高知市には”ミカドアゲハおよびその生息地”として国の特別天然記念物に指定されている場所がある。
【久礼八幡宮】
久礼の浜、字松原に鎮座する久礼八幡宮は、祭神を応神天皇・市杵島姫神・田心姫神・神功皇后・比賣大神とする。
毎月1日の朝、久礼の漁師の奥さんや母親が久礼八幡宮に参詣し”おこもり祭”をする。
秋の久礼八幡宮例大祭の中の神事の一つ「神穀祭(みこくさい)」は農民を中心とした神事であるが、航海の安全と豊漁を願う久礼の漁民にとっても久礼八幡宮は特別な存在である。
久礼大正町市場
大正町市場を中心とする古い町並みは、古くからの漁業と交易を基盤に発展した商店街であり、久礼の漁師町を象徴する建築物が建ち並んでいる。明治時代から地元の台所として賑わう久礼大正町市場、公道40mの両側に十数戸の建築物が建ち並び、店先には午後二時過ぎから朝どれ・昼どれの新鮮な魚介類・野菜などが所狭しと並ぶ。
明治の中頃の闇市が市場の起源で、久礼浦に暮らす漁師の女将さん達が、ヒメイチ(姫市、ヒメジ、ヒメジ科の魚)の炒りジャコを売り始めたのが最初との話。
大正4年の久礼の大火で、市場周辺一帯230戸が焼失するという大災害に見舞われた。その際に時の天皇、大正天皇から復興費が届けられたことに住民が感激し、”地蔵町”という地名を”大正町”に改名して以来”大正町市場”と呼ばれている。
【久礼大正町市場の西入口】
大正町市場は元々地元である久礼の台所としての役割が中心であったが、魚介類の新鮮さや気さくな活気のある雰囲気に惹かれ、近年は町外・県外からの観光客も多く訪れる場所となっている。
旧炭倉庫群・桟橋跡
中土佐町の久礼地区は、藩政時代から物資の集散地として栄え、明治期になると陸路が整備されてきた事により、さらに高南・北幡地域の林産物の積出港としての地位を高めた。これに伴い久礼では木炭や材木を扱う商人が増え繁栄してゆく。
久礼八幡宮前のふるさと海岸には、桟橋跡が残っている。この辺りは、近世・近代期に米や山林資源の積み出しで賑わった海岸である。米や山林資源は、主に背後の久礼山間部、大野見、松葉川、窪川、大正地区から運ばれた。現在の中土佐町役場周辺に高知営林局の貯木場があった頃には、貯木場から久礼八幡宮の横を通りこの桟橋に至るトロッコ軌道が引かれ、木材や製板が桟橋から船に積まれ和歌山方面へ移出された。大正期に鎌田港が開かれてからも、多くの木材や製板はこの桟橋から船積みされ、浜は大勢の作業者で賑わった。往時を偲ばせる桟橋跡の架台は、久礼が木材や炭の流通で賑わった頃のシンボルとして、今なお地域の人々に愛されている。
【旧炭倉庫群】
明治~大正~昭和初期にかけて、久礼には薪炭を扱う商人が数多くいて、近隣の大野見地区や北幡多方面から買い集めた炭を格納する為の”炭倉庫群”が存在した。往時は数十棟もあったと言われ、この倉庫群から荷馬車で鎌田港に運び、港から船で移出したようである。現在では炭倉庫群の一部は、近代建築の民家や干物製造所などに変化しているが、久礼が近隣の山林資源の集積地として、その流通・往来で繁栄した頃の面影を残す景観である。
恵比須神社
久礼外港や久礼漁民センターに隣接する辺りを、住民は上町(うえまち、うわま)と呼ぶ。この辺りは土佐の海辺特有の住環境で、比較的狭い敷地に隣家とほとんど隙間無く接している。古老の元漁師の話では、元々は松原であったそうだ。江戸期の「土佐浦々の図」には、現在の恵比須神社が人家の表現されていない海岸部に描かれている。
上町は他の区域より一段上がった地形の場所にあり、防波堤との間には町道が通っている。この町道には洗濯物が干してあったり、花木の鉢が置かれていたりと生活感の漂う場所である。町道から大正町方向に向かって、幾筋かの路地が通じており、また防波堤の所々には階段が設けられている。何ヶ所かの階段の踊り場には、雨除け・日除けのテント・簾が張られ住民の憩いの場となっている。
【恵比須神社】
恵比須神社は、久礼外港近くの恵美須町の居住地にあり、船霊信仰と共に久礼の漁業に携わる人々が篤い信仰を寄せている神社である。
藩政期の久礼浦の図面上では、恵比須神社は居住地の外れに存在するが、いつの時代においても恵比須神は人々に親しまれ、久礼の浜の変遷を見守り続けてきた。
本町商店街通り
中土佐町久礼の本町商店街通りは、高知県で最古の酒蔵が残る商店街であり、近世・近代期に建築された民家・商家が多く見られる。それらは土佐漆喰、町家の形式、水切り瓦を多用するなどの伝統的な建造物となっている。これは、昔の大野見地区から久礼地区へ至る主要道路が、この本町商店街を通っていたことの名残である。また、街路には煉瓦造りの塀が残っており、この煉瓦は四万十上流域の木材の搬出等で栄えた久礼港まで関西圏から運ばれたものである。これは当時、本町商店街が久礼の中心地であったことを示している。
本町商店街通りには、天明元年(1781年)創業で高知県内最古と言われる酒造メーカーである『西岡酒造店』がある。酒造蔵に残る建築工法や資材には、背後の山分から陸路による往来を示す蕨縄、四万十川流域山間部の木材・竹材、海路により高知市方面から移入されたと思われる土佐漆喰などがふんだんに使われている。酒造に必要な米や大量の薪は、大野見・久礼周辺・四万十川流域の山々から運ばれてきた。
この本町商店街通りは、久礼の中心街を通る四国八十八箇所霊場巡りの遍路道でもある。36番札所の青龍寺(須崎市)から37番札所の岩本寺(四万十町)に至る重要な遍路道の一つで、近くの久礼港に通ずる中島通りには遍路向け宿泊施設が2軒ある。
【本町商店街通り(南向き)】
久礼において藩政期からの酒造文化を伝える酒造所『西岡酒造店』は、この本町商店街にある。町道に沿う店舗付近は、昔の久礼の銀座通りであったという。帰港した漁師達が気前よく賑わった本町商店街通りであった。
【本町商店街通り(北向き)】
四国八十八箇所遍路道の一つでもある本町商店街通りに面した西岡酒造店の入口。
【久礼小・通学路から見る本町商店街】
久礼町内を一望できる高台にある久礼小学校の学問坂からみた西岡酒造店の周辺。
鎌田港
中土佐町久礼の鎌田港は、昭和10~30年代に林産物積み出し港として賑わった。大野見・松葉川、北幡の大正・窪川方面および地元の久礼山間部からの木材・炭・薪(地元で束木[タバキ]と呼ばれる)を阪神・和歌山方面に移出するための港として栄えた。当時の鎌田港には徳島の船や地元の動力を付けた木造船が入港していた。
鎌田港の近くには、土佐十景の一つとされ、鬼ヶ島の鬼にまつわる話でも有名な「双名島(ふたなじま)」がある。まだ鎌田港が小規模で港湾施設も十分でなかった昭和10~20年代に、町が”久礼港拡充期成同盟会”を組織して中央等各方面に働きかけた。その際に最も力を入れたのが、この双名島と岩礁を結ぶ防波堤の築造であったそうである。この防波堤は総延長294mの長さで、工事は6年(昭和24~29年)の歳月を要した。
この景勝地としての双名島周辺は、また子供連れで手軽に海釣り・磯釣りを楽しめる釣りスポットとして、町内外の釣りファンに親しまれている。さらに双名島の北北東方向直ぐの場所には、高知県で最もポピュラーなビーチ・ブレイクと言われる「大野サーフポイント」があり、県内外のサーファーが訪れている。
【鎌田港】
鎌田港の築港は大正5~7年であるが、大正から昭和にかけて薪炭・木材の積出港として活況を呈し、地区の人々に土木業・運搬業・仲仕などの新たな生業を生んだ。木材の運搬も昭和40年代から陸送が主流となり、やがて国道56号線が激しいカーブや落石で危険な海岸ルートを避けた北道回りとなると、鎌田港からの木材の移出は衰退の途を辿る。その後は、鰹釣り漁船の根拠地や採石の積出港として機能している。
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